斎藤茂吉生家

 1882年(明15)5月14日(戸籍では7月27日)、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村=現上山(かみのやま)市金瓶=の農家守谷伝右衛門の三男として生まれました。

 1896年(明29)14歳の時、茂吉の資質を目にとめていた住職の仲介で、東京浅草で淺草医院を開業していた同郷出身の斎藤紀一のもとに寄寓し、開成尋常中学校(現在の開成中学校・高等学校)に編入学します。医学を学び、斎藤家の養子となって後を継ぐためでした。

 1910年(明43・28歳)に東京帝国大学医科を卒業した茂吉は、同大学助手として付属巣鴨病院に勤め精神医学を専攻、

 1917年(大正6・35歳)11月、長崎医学専門学校の教授に任じられ長崎に赴任します。そこで1921年(大10・39歳)まで精神医学と法医学を講じた後、同年10月渡欧留学。オーストリアのウィーン大学、その後ドイツのミュンヘンの国立精神病学研究所で研究を重ね、1924年(大13・43歳)に東京帝国大学医科大学より医学博士の学位を受けます。同年12月、帰国の途にあった船上の茂吉に、養父が創設した青山脳病院全焼の報が届き、帰国後は病院再建に奔走する日々を迎えることとなります。医学と短歌と、二つの道を選んだ茂吉は、この間も歌人として活動し続けた。

 1921年には第2歌集『あらたま』を出版。1926年(大15)には島木赤彦死去にともない「アララギ」の編集発行人になりました。1927年(昭2・45歳)、茂吉は再建した帝国脳病院の院長となります。翌年、養父紀一が死去。そして戦時色が濃くなってゆくなか、平福百穂、中村憲吉など心を通じ合った歌友との死別、それらを堪えるよすがとするかのように取り組んだのが柿本人麿の研究です。それは、

 1934年(昭9)の『柿本人麻呂(総論篇)』をはじめ1940年(昭15)の『柿本人麻呂(雑纂篇)』まで全5冊の出版となって結実します。この業績により、帝国学士院賞を受賞しました。(斎藤茂吉記念館ホームページより)