頓阿作と言われる「人麿肖像彫刻」

  

 柿本人磨は古来「歌聖」とよばれ尊敬を受けてきたが、その生国、出自、歿処(亡くなった場所)などについては、実はよくわかっていない。万葉集巻二の詩の中に人磨歿処とされる「鴨山」については古来から諸説がある。先生は「鴨山」は石見のどの辺だろうかと大正三年あたりから注意して、昭和になってから実に二十年かかって「鴨山考」の発刊となる。

 

 斎藤茂吉先生が何を拠り所に推定されたのか、先生が自説「鴨山考」の拠りどころとした歌は次の三首と三つの容認事項

容認事項

 1)万葉集を信じて石見の国で死んだとする(万葉集巻二の前書きに「柿本人麿朝臣人麿、石見の国に在りて臨死らむとす る時、自ら傷みて作る歌」としてあげている。」)

 2)人麿は石見の国にいたこと

 3)人麿は死ぬ時も国府の役人として石見の国に来ていた

拠り所とした歌三首

 人麿臨死らむとする時の歌

・「鴨山の 岩根しまける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ」

 妻依羅娘子の挽歌

・「けうけうと吾が待つ君は石川のかいにまじりてありといはずやも」

・「直のあひはあひかつましじ石川に雲たち渡れ見つゝ偲はむ」

 他に人麿の長短歌と娘子の歌若干であった。

 以上の事から論理を組み立て探索する中で実在する「鴨山」を探り当てたけれども、あらかじめ湯抱湯谷の奥に「鴨山」という山のあることを知っていてこれに辻褄が合うように論を立てたのではなかったのである。歌の解釈をもとに思索を重ねて、おおよその見当を付けた所に「鴨山」が実在していたのである。